清原元輔

小倉百人一首 042

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは

清原元輔

読み

ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは

現代意訳

かたく約束を交わしましたね。互いに涙で濡れた袖をしぼりながら、波があの末の松山を決して越すことがないように、二人の仲も決して変わることはありますまいと。

※かたみに / 「互いに」の意
※袖をしぼり / 涙を流したの意

季節

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出典

「後拾遺集」

解説
清原元輔(きよはらのもとすけ・延喜8年~永祚2年 / 908~990年)は清少納言の父で、清原深養父の孫にあたります。
村上天皇の勅によって「後撰集」を撰んだりしたほか、「万葉集」の訓読の仕事なども手がけた人物です。

清原元輔は藤原公任が優れた歌人として選んだ三十六歌仙の一人でもあり、「枕草子」にも優れた歌人であった逸話が伝えられています。
また、官僚としても活躍し、河内権守から国防守、さらに鋳銭長官から肥後守に任ぜられています。

この和歌は、友人が恋人に去られたとき、元輔がその気持ちを和歌に表し、相手に届けたと言われている和歌で、「後拾遺集」の詞書に「心変わり侍りける女に、人に代わりて」とあります。

自分の気持ちを直接表しているのではないのですが、互いに「心変わりもすることがない」との約束をたがえたことを訴え、恋に悩み苦しむ気持ちがよく伝わってきます。

また、この和歌は、古今集にある「君をおきて あだし心を 我が持たば 末の松山 波も越えなむ (あなたの他に心が引かれるようなことがあれば、波は末の松山も越えてしまうことでしょう)」が元になっていますが、この「末の松山」がどこなのかは、はっきりとは分かっていません。

一説では、現在の宮城県多賀城市辺りにあった松林と言われていて、この松林は海から離れているので、大きな波も松山を越えることができません。
それによって「末の松山」は、有りようもないことの例えとして使われていたようです。

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