中納言朝忠
小倉百人一首 044 |
逢ふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし |
あふことの たえてしなくば なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし |
中納言朝忠 |
読み あふことの たえてしなくば なかなかに ひとをもみをも うらみざらまし 現代意訳 あなたと会うことが一度もなかったのならば、むしろあなたのつれなさも、わたしの身の不幸も、こんなに恨むことはなかったでしょうに。(あなたに会ってしまったばっかりに、この苦しみは深まるばかりです) ※絶えてしなくば / 「絶えて」は「絶対に・まったく」。「し」は強調の語 ※なかなかに / 「かえって」の意 ※恨みざらまし / 「ざら」は打消し。「まし」は実際とは反対のこと 季節 - 出典 「拾遺集」 解説 中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ・延喜10年~康保3年 / 910~966年)は、藤原公任が優れた歌人として取りあげた三十六歌仙の一人で、三条右大臣・藤原定方の子どもです。 大宰大弐などをへて、従三位権中納言にまですすみましたが、漢文にも優れ、和楽器である笙(しょう)の名手でもあったと伝えられています。 朝忠は笙の名手でもあったため、恋心を寄せる女性も多くいましたが、この和歌は、朝忠が失恋した時に詠んだ和歌だと言われています。 しかし、この和歌は、40、41番の歌と同じ、天徳四年の内裏歌合のときに詠まれているので、相手を特定したものではありません。 「逢わなければ、恨むこともなかろうに」と、一度は逢ったものの、再会の機会がなかなか叶わず、相手を恨むような形になっていますが、それとは反対に、「逢いたい」という強い気持ちが伝わってくる和歌になっています。 また、元は「未だ逢わざる恋」に入っていて、「逢わなければ恨むこともないのだろう。しかし、ぜひとも逢ってみたいものだ」というような解釈になります。 いずれをとっても味わいある和歌で、聞き手の解釈によって情景が広がっていくのも、この和歌の巧みなところではないでしょう。 |
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