伊勢

小倉百人一首 019

難波潟 短かき蘆の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや

なにはがた みじかきあしの ふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや

伊勢

読み

なにはがた みじかきあしの ふしのまも あはでこのよを すぐしてよとや

現代意訳

難波潟の入り江に茂っている芦の、短い節と節の間のような短い時間でさえもお会いしたいのに、それも叶わず、この世を過していけとおっしゃるのでしょうか。

※ 難波潟 / 大阪湾の一で、芦がよく茂っていた
※ 過ぐしてよとや / 「てよ」は命令形で、「や」は疑問を表していて、「過ごしていけとでも」というような意味。

季節

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出典

「新古今集」

解説
伊勢(いせ・貞観17年頃~天慶元年頃 / 875?~938年?)は平安時代初期の人で、伊勢守・藤原継蔭の娘で、宇多天皇の后・温子様に女官として仕えていました。
後に天皇の寵愛をうけて御息所(みやすんどころ)とも呼ばれました。

伊勢は皇子を出産しましたが、敦慶親王や后の弟である藤原仲平にも愛されるなど、伊勢は容貌や心情の美しい女性だと伝えられているだけでなく、和歌にも優れ、藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人にも数えられています

小野小町に次ぐ女流歌人として、「古今集」などの勅撰集にその和歌が伝えられていますが、娘の中務も伊勢の才能を受け継ぎ、三十六歌仙に名を残しています。

伊勢は仲平と愛し合っていましたが、仲平は心を移していて「忙しくてお会いすることができません」というような手紙を出しました。
この和歌は、その手紙に対して詠まれたものだと言われていますが、伊勢の素直な胸の内がよく伝わってきます。

自然の情景を詠んだ前半部と、自分の気持ちを詠んだ後半部とを、「節の間」で巧みにつなぎ合わせていて、激しい恋心を詠んでいるにもかかわらず、その切なさが感じられる和歌になっています。

また、広い難波の干潟から小さな芦へと移り、更に、その短い節への移り変わりも巧みで、味わいがある和歌でもあります。

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