百人一首の歴史と現代意訳

百人一首(小倉百人一首)とその歴史

百人一首とは


「百人一首」と呼ばれるものは、一般に「小倉百人一首」として知られていますが、これは今から約730年もの昔、鎌倉時代の歌人である藤原定家がまとめたもので、百人一首の歴史はかなり古いものです。
 
天智天皇から順徳天皇までの約550年の間に、貴族や歌人たちの間で詠まれた和歌から、各人の優れた和歌や代表的な和歌一首を取り上げ、年代を追って、全部で百人の和歌を取り上げたものです。

「小倉百人一首」と呼ばれるのは、藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから、このように呼ばれていますが、小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。
「勅撰和歌集」とは、時の天皇の命で編纂された和歌集で、全部で21の和歌集がありますが、「小倉百人一首」は、次の10の「勅撰和歌集」から、和歌が選ばれています。

  古今集  … 24首
  後撰集  … 7首
  拾遺集  … 11首
  後拾遺集 … 14首
  金葉集  … 5首
詩花集   … 5首
千載集   … 14首
新古今集  … 14首
新勅撰集  … 4首
続後勅撰集 … 2首

 ※2番の歌(持統天皇)と4番の歌(山部赤人)などは、藤原定家が「新古今集」から選んでいますが、原歌は「万葉集」にあります

百首の中には恋の和歌が四十三首もあり、季節の歌では秋の和歌が一番多く選ばれています。
また、女流歌人は二十一人、僧侶も十五人が選出されています。

ところで、「百人一首」と言えば、一般に「小倉百人一首」のことを指していますが、定家が編纂した百人一首の後、多くの百人一首が生まれています。
古くは1483年、時の将軍・足利義尚が選んだ「新百人一首」のほか、1800年頃に作られたと言われる「後撰百人一首」などがあります。
このほか、武士だけの和歌を選んだ「武家百人一首」、女性だけの「女百人一首」などもありますし、江戸時代には「蔵笥(ぞうし)百首という、半ば教育的なものもつくられました。

ここでは、よく知られている、藤原定家が選定した「小倉百人一首」を元にしていますが、機会があれば、この他の百人一首にも目を通してみてください。

百人一首の歴史


百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われていますが、カルタの始まりは平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものだと言われています。
「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。

これは「歌合せ」といって、いろいろな貝にそえて和歌を詠み、その和歌を競い合うというものでした。
やがて、それと似た絵合わせをする「貝おおい」という遊びが進歩して、「歌貝」というものに発展します。

「歌貝」では、貝の形をした札が上の句、下の句ともに100枚あって、現在の「かるた取り」と同じように、下の句の札を並べて、上の句を詠んで下の句を取るというものです。
この遊び方は、百人一首の歴史からすると、かなり現在の遊び方に近いものではないでしょうか。

歴史が下って戦国時代の頃になると、百人一首が「かるた」として遊び始められますが、はじめは宮中とか諸大名の大奥などで行われ、それが年間行事となったようです。

この時代の「かるた」は、まだまだ庶民の間では馴染みの薄いものでしたが、江戸時代に入り、木版画の技術の発展や、南蛮渡来の「かるた」を取り入れることによって、庶民の中に徐々に広まっていきます。

やがて、「民用小倉百人一首」などが出版され、元禄時代の頃から一般庶民の間にも広がり、「和歌かるた」と言えば「小倉百人一首」のことを指すようになり、庶民にも馴染みあるものになりました。

このように百人一首の歴史は古いのですが、「小倉百人一首」が正月の楽しみとして各家庭でも行われるようになったのは、ずっと後の安政の頃からだと言われています。

しかし、現在では、正月以外でも簡単に遊べる室内ゲームとして親しまれてるほか、日本の古典や歴史の風情を学ぶうえでも馴染みやすく、身近な資料となっています。

また、最近では「小倉百人一首」を応用した、「五色百人一首」というものも現れ、小・中学生の間で楽しまれていますし、「坊主めくり」などは誰もが簡単に遊べるので、百人一首のファンも多いようです。
ここでも百人一首のいろいろな遊び方について解説しているので、ぜひ楽しんでみてください。

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