順徳院
小倉百人一首 100 |
ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり |
ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり |
順徳院 |
読み ももしきや ふるきのきばの しのぶにも なほあまりある むかしなりけり 現代意訳 御所の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけ、(朝廷の栄えた) 昔が懐かしく思われて、いくら偲んでも偲びきれないことだ。 ※ももしき / 「百敷」または「百石城」と書き、多くの石でできた城という意味で、御所のこと ※しのぶにも / 「しのぶ」は「(昔を懐かしむ)偲ぶ」と、「忍ぶ草」がかかっている。「忍ぶ草」は、荒れた軒などに生えるシダ類。 ※あまりある / 「しのぶ」にかかり、「偲んでも偲びきれない」 季節 - 出典 「続後撰集」 解説 順徳院(じゅんとくいん・建久8年~仁冶3年 / 1197~1242年)は後鳥羽天皇の第三皇子で、第八十四代の天皇です。 十三歳の時に即位され、承久三年(1221)、後鳥羽院を中心に北条氏追討のために挙兵されましたが、敗れて佐渡に流され、在島二十二年ののち崩御なされました。 この和歌は、百人一首の中でも最後の和歌なのでよく知られていますが、世が 移り変わり、栄衰への順徳院の気持ちが見事に詠まれています。 また、この歌は鎌倉幕府との対立が深まった頃に詠まれたものですが、順徳院が二十歳の頃だったと言われています。 哀愁に満ちた歌ですが、その様な若さでこの歌を詠まれたことにも、感慨深いものが感じられます。 ところで、順徳院は藤原定家とも親交があり、和歌や文学に優れておられました。 佐渡に流されたのちも「順徳院御百首」を定家に送り、批評を仰がれたと伝えられていて、和歌には深い造詣があられたようです。 |
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