崇徳院
小倉百人一首 077 |
瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ |
せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ |
崇徳院 |
読み せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ 現代意訳 川の流れが早いので、岩にせき止められた急流が時にはふたつに分かれても、またひとつになるように、わたし達の間も、(今はたとえ人にせき止められていようとも) 後にはきっと結ばれるものと思っています。 ※せかるる / 「堰きとめられて」の意 ※滝川 / 滝のような急流 季節 - 出典 「詞花集」 解説 崇徳院(すとくいん・元永2年~長寛2年 / 1119~1164年)とは第七十五代の天皇で、鳥羽天皇の第一皇子です。 藤原顕輔に「詞花集」の編纂を命じられたほか、西行法師などとも親交がありました。 保安四年(1123年)、わずか五才で即位されましたが、永治元年(1141年)、鳥羽上皇に強いられて退位されました。 その後も、自らの子どもである重仁親王が即位することができないことなどもあり、後の保元の乱の原因のひとつになります。 乱の後、その責任者として讃岐の国(現在の香川県)に流されましたが、讃岐に流された崇徳院は髪も爪も切らず、世を恨みつづけながら亡くなっていったと言われています。 この和歌は、崇徳院が宮中にいられた頃につくった和歌のひとつで、崇徳院自らが編纂を命じられた「久安百首」のために詠まれたものです。 急流に例えられた強い恋心がよく伝わってくる和歌ですが、「われても」は「流れがわかれる」ことと「恋人同士がわかれる」ことをかけているなど、つくりも巧みです。 また、この歌は恋の和歌ですが、結句の「とぞ思ふ」によって、はじめて恋心を表したものだと示すなど、聞く人には新鮮な驚きがあります。 一方、「別れてもまたひとつになる」という表現は、「また都に帰りたい」といった気持ちが込められているようでもあります。 |
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