良暹法師

小倉百人一首 070

さびしさに 宿をたち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮

さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆふぐれ

良暹法師

読み

さびしさに やどをたちいでて ながむれば いづこもおなじ あきのゆふぐれ

現代意訳

寂しくて、家を出てあたりを眺めてはみたが、この秋の夕暮れの寂しさはどこも同じであるものだ。

※宿 / 旅館などではなく、自分の住まいである庵

季節



出典

「後拾遺集」

解説
良暹法師(りょうぜんほうし・生没年不明)は能因法師と同時代の歌僧ですが、詳しいことは伝わっていません。
各地を旅していたようですが、比叡山の僧侶で、祇園の別当を務めた後、晩年は大原・雲林院に住んだと言われています。

この和歌は、良暹法師が比叡山延暦寺から、大原の里に移り変わった頃に詠まれたものだと言われています。
秋の夕暮れ時の寂しさが、とてもよく伝わってくる和歌のひとつです。
技巧なども凝らさず、見たままの感想を素直に表現していますが、「それならば、いっそうのこと、この秋の寂寥を楽しもうではないか」という、余情が感じられます。

また、これまでの和歌は、相手に呼びかけるものや、自分の気持ちなどを詠んだものが主になっていましたが、この和歌には、それらとは違った世界が描かれています。

当時の大原は住む人も少なく、幾つか修行僧の庵などがある寂しいところだったようで、人の気持ちと秋の景色、そのどちらも寂しいのですが、この和歌には哀しさなどはなく、どこか大らかな気持ちが伝わってきます。

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