参議篁

小倉百人一首 011

わたの原 八十島かけて 漕き出でぬと 人には告げよ あまのつりぶね

わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね

参議篁

読み

わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね

現代意訳


(篁は)はるか大海原を多くの島々目指して漕ぎ出して行ったと、都にいる親しい人に告げてくれないか、そこの(漁夫の)釣舟よ。

※わたの原 / 「わた」は海、「はら」は広い所の意味
※八十島 / 「八十」は数の多い意味
※人には / 「には」は限定を表していて、「都にいる人」となる
※あまのつりぶね(海人の釣り船) / 「あま(海人)は漁師のこと

季節

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出典

「古今集」

解説
参議篁(さんぎたかむら・延暦21年~仁寿2年 / 802~852年)は参議・小野岑守の子どもで、小野篁といいます。
子どもの頃は弓馬を好んでいましたが、後に学問に転じて、漢詩文などで名を上げました。
和歌にも優れた平安初期の学者で、同時代の在原業平と共に、参議篁は高い評価を受けています。

また、承和三年、篁は遣唐副使に任ぜられましたが、訳あって、大使・藤原常嗣と争って乗船しなかったため、隠岐の島に流罪になりました。
その後許されて参議にすすみましたが、参議は、太政官の大納言、中納言に次ぐ役職で、「宰相」などとも呼ばれていました。

この和歌は、隠岐に流罪になって送られていく途中、出会った漁夫の釣り舟を見てつくった和歌だと言われています。
和歌の中には哀しい言葉などは詠まれていませんが、結句の「あま(海人)のつりぶね」では、人にではなく、釣り船に語りかけています。
これによって、歌全体に哀しい孤独感が漂っていて、これからの暮らしや境遇に対しての篁の決意が、よく伝わってくる和歌となっています。

当時、流刑先は「近流」、「中流」、「遠流」とありましたが、篁が流された隠岐の島は遠流にあたり、最も遠く、辺境の地とされていました。
そのような地に向かう時の和歌ですが、結句の他は清々しくも感じられます。
それだけに、「あまのつりぶね」は強い印象を与え、心の内が見事に表現されています。

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